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DJまほうつかい「All those moments will be lost in time 2020」mp3

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音楽、新曲、2曲入り、mp3、解説長い(無料) DJまほうつかいのピアノデビュー曲であり、最も古いピアノ曲「All those moments will be lost in time」のお蔵出し、2014年に制作し眠らせていた打ち込みバージョンと、その音源をアップデートした2020年バージョンの2曲をお届けします。これはリリースする予定のなかった完全新作タイトルです。 KRAFTWERKのフローリアン・シュナイダーが73歳で死去 https://rollingstonejapan.com/articles/detail/33803/3/1/1 現在は、「ソロピアノ」以降のDJまほうつかいを知る方の方が多いと思いますが、もともとは楽器のできないテクノ少年でした。中学生の心にクラフトワークの佇まいは強く響き、刷り込まれ、ゆえにDJまほうつかいのピアノは「拙いが、しかしテクノ、エレクトロニックミュージック的目線が保たれている」のではないかと自己分析をしています。大げさに言うなら、ピアノ以降のチリー・ゴンザレスとそれ以前の活動形態の混沌さ(映画『黙ってピアノを弾いてくれ』)、との相似といえば伝わるでしょうか? DJまほうつかいの初期の活動は、「学研のおもちゃで音を鳴らす」「ニンテンドーDSをスクラッチする」などの実験的なものでした。ちなみにこれは配信中の『フランス革命Live at UPLINK』などで聴けます。偏りつつもある程度豊かなリスニング経験の豊富さに対して、技術がゼロ。その後、最低限のクラシック教育を経たとはいえ、プレイヤー目線では演奏としてはカウント(数値評価)できない拙いピアノ表現。それはたぶん、僕の頭の中に常に少年期に出会ったテクノ的シーケンスが走っているからではないか? そして、そのシーケンサーが時に有機的にバグっているだけなのではないか? そんな気がしています。 これは「Girl / Boy EP」の解説・論考におけるサックス奏者の吉田隆一理論における「ノイズ説」と等しく、DJまほうつかいのピアノ以降のデビューの場がHEADZ(佐々木敦)であったことの裏付けだと感じています。音楽ならざるものを音楽とし聴く姿勢が予めインストールされているのです。音大や芸大で培われるアリート的な技術や理論とは真逆で、野良的で純粋に趣味的とも言えます。芸術家集団のパープルームとの親和性が高い点もそういうところかもしれないなとも、と自己分析しています。 前置きが長くなりました。気まぐれに作り外付けHDの奥に押しやられたていた2014ver.の「All those moments will be lost in time」は、ピアノ作曲ナンバーの「再電子化」ですが、シンプル、繰り返し、フワ〜としたシンセ、メッセージ性の希薄さ、単調さへの「鉄の意志」が非常にクラフトワーク的です。コードは2つで、3コードのパンクバンド以下とも言えます。「バンドにすらなれないこと」こそが、「テクノ、エレクトロニック」の条件だと僕は信じいて、ゆえに、初期の実験音楽バンドっぽさを離れ、ヴィジュアルも含め脱プログレバンド化・ポップ化して以降のクラフトワークは、例えばHIPHOPとの接続を容易に果たしたのだろうと感じています。教養や技術の否定ゆえのポップ化。 要約すると、ある種の「貧しさ」「簡素さ」こそがコンセプトをきわださせ音楽を強くする、そういう仮説です。 一方「All those moments will be lost in time」2020ver.は訃報を受けて、バージョンの古すぎる2014年のデータをこじ開け、BPMと音源を差し替えたものです。2020年バージョンは「もしもバンドが組めたなら」という思考実験であり、いわゆる生バンドの疾走感のシミュレーションです。フルートが主旋律を奏でるのは、もちろん電子フルート(クラフトワーク)の再生化とも言えそうです。もちろん「こういうこと=半端なオーガニック化」を間違っても試みなかったことこそが、クラフトワークのペルソナをより堅固なものにしたのだろうと察します。例えばメタリカのオーケストラコラボのような、権威と豊かさをつかの間求める逸脱を(『S&M』はそれはそれとして好きですけど)、決して彼らはしないのです。 人生においてそれを「退屈」「進化なし」と感じることもありました。ビジネス的に見るとフローリアン脱退までのラルフ&フローリアン体制は、例えるならハイロウズのマーシー&ヒロトに似ていて、他のメンバーは常に流動性を持ち、プレイヤー(広義の)でありながらその頭脳として「秘伝の味のブランディングの保持」を最優先とし保つこと。つまり資産価値のキープこそを最大の使命としているのだなとわかります。これはビジネス的に考えればとても正しく、しかしリスナーというものは時にビジネス優位の態度に厳しく反発してしまうものです。 おっと、さすがに脱線が過ぎるでしょう。フローリアン・シュナイダーさんに敬意と感謝を。心よりRIP。

DJまほうつかい「All those moments will be lost in time 2020」mp3
1All those moments will be lost in time 2014
2All those moments will be lost in time 2020
音楽、新曲、2曲入り、mp3、解説長い(無料) DJまほうつかいのピアノデビュー曲であり、最も古いピアノ曲「All those moments will be lost in time」のお蔵出し、2014年に制作し眠らせていた打ち込みバージョンと、その音源をアップデートした2020年バージョンの2曲をお届けします。これはリリースする予定のなかった完全新作タイトルです。 KRAFTWERKのフローリアン・シュナイダーが73歳で死去 https://rollingstonejapan.com/articles/detail/33803/3/1/1 現在は、「ソロピアノ」以降のDJまほうつかいを知る方の方が多いと思いますが、もともとは楽器のできないテクノ少年でした。中学生の心にクラフトワークの佇まいは強く響き、刷り込まれ、ゆえにDJまほうつかいのピアノは「拙いが、しかしテクノ、エレクトロニックミュージック的目線が保たれている」のではないかと自己分析をしています。大げさに言うなら、ピアノ以降のチリー・ゴンザレスとそれ以前の活動形態の混沌さ(映画『黙ってピアノを弾いてくれ』)、との相似といえば伝わるでしょうか? DJまほうつかいの初期の活動は、「学研のおもちゃで音を鳴らす」「ニンテンドーDSをスクラッチする」などの実験的なものでした。ちなみにこれは配信中の『フランス革命Live at UPLINK』などで聴けます。偏りつつもある程度豊かなリスニング経験の豊富さに対して、技術がゼロ。その後、最低限のクラシック教育を経たとはいえ、プレイヤー目線では演奏としてはカウント(数値評価)できない拙いピアノ表現。それはたぶん、僕の頭の中に常に少年期に出会ったテクノ的シーケンスが走っているからではないか? そして、そのシーケンサーが時に有機的にバグっているだけなのではないか? そんな気がしています。 これは「Girl / Boy EP」の解説・論考におけるサックス奏者の吉田隆一理論における「ノイズ説」と等しく、DJまほうつかいのピアノ以降のデビューの場がHEADZ(佐々木敦)であったことの裏付けだと感じています。音楽ならざるものを音楽とし聴く姿勢が予めインストールされているのです。音大や芸大で培われるアリート的な技術や理論とは真逆で、野良的で純粋に趣味的とも言えます。芸術家集団のパープルームとの親和性が高い点もそういうところかもしれないなとも、と自己分析しています。 前置きが長くなりました。気まぐれに作り外付けHDの奥に押しやられたていた2014ver.の「All those moments will be lost in time」は、ピアノ作曲ナンバーの「再電子化」ですが、シンプル、繰り返し、フワ〜としたシンセ、メッセージ性の希薄さ、単調さへの「鉄の意志」が非常にクラフトワーク的です。コードは2つで、3コードのパンクバンド以下とも言えます。「バンドにすらなれないこと」こそが、「テクノ、エレクトロニック」の条件だと僕は信じいて、ゆえに、初期の実験音楽バンドっぽさを離れ、ヴィジュアルも含め脱プログレバンド化・ポップ化して以降のクラフトワークは、例えばHIPHOPとの接続を容易に果たしたのだろうと感じています。教養や技術の否定ゆえのポップ化。 要約すると、ある種の「貧しさ」「簡素さ」こそがコンセプトをきわださせ音楽を強くする、そういう仮説です。 一方「All those moments will be lost in time」2020ver.は訃報を受けて、バージョンの古すぎる2014年のデータをこじ開け、BPMと音源を差し替えたものです。2020年バージョンは「もしもバンドが組めたなら」という思考実験であり、いわゆる生バンドの疾走感のシミュレーションです。フルートが主旋律を奏でるのは、もちろん電子フルート(クラフトワーク)の再生化とも言えそうです。もちろん「こういうこと=半端なオーガニック化」を間違っても試みなかったことこそが、クラフトワークのペルソナをより堅固なものにしたのだろうと察します。例えばメタリカのオーケストラコラボのような、権威と豊かさをつかの間求める逸脱を(『S&M』はそれはそれとして好きですけど)、決して彼らはしないのです。 人生においてそれを「退屈」「進化なし」と感じることもありました。ビジネス的に見るとフローリアン脱退までのラルフ&フローリアン体制は、例えるならハイロウズのマーシー&ヒロトに似ていて、他のメンバーは常に流動性を持ち、プレイヤー(広義の)でありながらその頭脳として「秘伝の味のブランディングの保持」を最優先とし保つこと。つまり資産価値のキープこそを最大の使命としているのだなとわかります。これはビジネス的に考えればとても正しく、しかしリスナーというものは時にビジネス優位の態度に厳しく反発してしまうものです。 おっと、さすがに脱線が過ぎるでしょう。フローリアン・シュナイダーさんに敬意と感謝を。心よりRIP。